こころもち伸び来し日差にひかりをり厨の床にこばしし水が
突然に「林原倒産」のニュースを聞けば聞くほどに呆れる「想定外」には
携帯電話のメールの稽古に妹へ文を打ちをり手間取りながら
左手に夫の顔の皺伸ばし三日目の髭懇に剃る
孫の婚に客等を乗せしマイクロバスは八時に里ゆ岡山へと発つ
猪の食べ残したる薯を掘る子と二人して梅雨の晴間を
墓詣りに岡山ゆ来し兄百歳にして野田総理より表彰を受く
両親の介護と夫の入院と家業に暇のなき娘なり
乳飲み子を攫はれし親猫は呆然と涙ぐむかと見めブルーの瞳が
枝つきて「デー」に出かける夫と吾に「今日は湯原か、泊りは奥津カ」と娘
小柄にて虚弱と言はれ肺病みし兄が堂々の百歳を生く
宅配便にてわれに届くか母の日に同居の子より洋らんの鉢
「えんどう」の莱実の柔きを採りゐるに採り残しは葉とも太りぬ
取り残す大根は無事に越冬し桜に負けじと咲くか満開
庭に聳ゆる泰山木は百年ぞ緑豊けき葉を輝かす
村の長老が二人身罷りて八十六歳の夫は大関取組もせず
非常にも雪が降りゐる被災地を想ひてわが家の「エアコン」を切る
婆の膝に余る重さと曽孫は母乳なくとも百日を迎ふ
病む夫に新薬・灸と気遣ふに認知度進むか幻覚のあり
年の瀬を更なる寒波の及び来て鞭打つ老のやる気を封ず
初めてのパスポートにて空港へ降りたりき那覇は土砂降りの雨
部屋狭しと飾る雛から思ひ出す母手造りの戦時中の雛
庭に慫ゆる泰山木は百年ぞ緑豊けき葉を輝かす
若き日の父は銀行員にして銭に触れ銭に縁なき生涯なりき
素枯れたるゴーヤーの蔓に残りゐる実は熟れはじけて種こぼしをり
チリ炭鉱にて地価に埋もれし三十余名奇跡の生還に歓声を上ぐ
サッカーに興味なき我の胸痛む駒野のシュートをテレビに見ては
樒の枝切らむと掴みしその枝の蜂がちくりと指を刺したり
気まぐれの寒の戻りの寒けきに仕舞ひし冬物また取り出しぬ
春一番静まる峡の穏しさに杉の花粉の飛ぶ気配なし
ぬるむには間のある二月の谷間に芽吹く兆の土手の枯芝
歌出来ず止めたきなどと口走れど生き甲斐なるを吾が知りて生く
結婚式の足しにと掛けし孫の保険奇しくも満期ぞ式二日前
拾はんとして届かざり栗の実の大きが見ゆるか繁みの中に
ふと漏らせし話を拾いし娘が買ひて夫のパジャマのふんはり温し
支持率にかかはりもなく伸びをりぬゴーヤーは緑のカーテンさながら
日差を纏ひ伸びゆく稲を波立たす風の清けさはたまぶしさよ
抜き上ぐる大根太くいと白くきめ細やかなり裸のままに
三人の孫の入学記念樹の「そめいよしの」よ揃ひて満開
親しみし「二条城をも見納めか」と施設に行くを嘆く妹
ごそごそと動くは猫か「その時歴史が動いた」の番組が始まる
とぎれ勝ちの会話を手話に筆談につなぎつなぎて子との団欒
炊き上る新米匂ひて厨より目覚めを促す炊飯器の音
無器用に剝きゐる夫の震ふ手に梨の雫が秋を光らす
七匹の猫で足りぬか娘の纏ふ服の絵柄に子猫が三匹
京都駅にて迷ひ入りたるスーパーに買はむかわれには縁なきくらし
塩のみにて美味さ絶品浅漬の食を促す香り歯ごたえへ
元気になつたら旅をしよう」と言ひし夫吾の回復を待たずに病むなり
昨日植ゑし黒豆の苗息づくと思へば降りつぐ雨もよろしゑ
落ち込んだ心もいつか和みくるヒップホップの弾んだリズムに
遠からずわが田もかくやと思ひ見つ泡立草生ふる休耕田を
わが家の雛を蔵に眠らせてテレビに見をり雛を飾るを
飽食の果てダイエットとはひもじくも励みしわれの青春せつなし
われに添ひ握りてくるる夫の掌の温もりを知る生かされて今
亡き友の家訪ひたれば庭木木の雨の雫も泪さながら
晩酌は一人冷酒酌みしとふ今宵の夫はわが熱燗に酔ふ
眼を病みて漸く煙草をやめし夫マッサージ機に深く身を置く
大和路のその娘「静」よ千の風よ母のふる里佐用へ吹き来よ
鶏の移動やうやく解かれし三月一日インフルエンザの新聞縛り上ぐ
灯を消して静まる鶏舎回りつつ撒きし石灰にもいや増す不安
連れて行くと言ひつつ孫に連れられて喜寿迎へたる朝を旅立つ
歌会にも体調悪しと籠りゐて登校拒否の子等思ひをり
取り残せしきうりは葉陰に太りゐてくの字にぐっすり昼寝の様に
キーボード打ちゐる孫の指先は躍るがごとく弾けるごとく
田植して泥まみれなる老い夫に先づビール注ぐ歌会にふれず
「きぬゑりしめ」の文字は古れども銀紙を開けば今も光る縫針
「努力しても出来ない事があっていい」歌の出来ない私の言訳
稲刈りを遅らす雨がまたも降りなべて倒すか刈る寸前に
いのしし等寝ころび月見したるやも莚敷くがに稻踏み倒し
国交の正常化交渉を目前に不信深まる「拉致」の爪跡に
十年後を夢見て植樹終へし夫「何時死んでも悔いはない」などと言ふ
炬燵に入れば眠気にさそはれぬわが遺伝子に寝太郎棲むか
浸る湯に肌を寄せ来て揉みくるる孫娘に入試のことにはふれず
緊張のゆるめば涙が頬つたふ手術に耐へむと閉じゐる眼より
心筋梗塞を病みしは吾の赤信号青となる身に黄のあるも知る
「死線越えて戻りたるお前に乾杯」と夫は手酌で杯重ねをり
大聖寺に続く山路の一軒家煙ゆるゆる濃きあぢさゐの花
長雨に出来の悪しきをことはりてささげの莢の細きが届きぬ
濁流は地をも石をも流しをり土砂降りの雨止む気配なく
奈義高原に見み上ぐる夜空はるけくもわれに対ひて光る星あり
病室に祭囃子が聞こえきぬ輪が胸のモニター祭を捉へよ
人間の有効期限なきがよしわれ七十三歳誕生日なり
頬かむりの案山子のスーツ色褪せて雪積む峡田になほ一人佇つ
「驚かないで聞いて驚かないで」と繰返し友白石さんの死を知らさるる
二十余万の鶏埋められし京の里に桜咲け咲け魂を鎮めて
鳥インフルエンザの終息迎へ晴ればれと新緑の香を吸ふ鶏舎の前にて
携帯電話に娘からのコールは夜毎九時「食事してゐるか用事はないか」
植ゑ付けて餅になるまで手掛けゐる農の主演者夫八十歳
退院の決まりて俄かに食欲の出で来て一つのプリンをくづす
もみぢ葉をぬらす夜露のしたたるを覚めて聞きをりかそけき音を
一升壜持ち上げ残りをすかし見て注ぎをり夫の癖なるしぐさに
JR脱線事故死者百余名運転手は孫と同期「高見君」
ひと月を保育器に入りゐしその女孫いとも元気に成人式迎ふ
ほつこらと逆光の日差を肩に背に受けつついつしかうつ和らぎぬ
熱き茶を注げばたちまち香にたちて茶碗のぬくもり掌につつみをり
祖の墓も住処もあまた沈めゐて蒼き奥津湖魂鎮とも
阿部すみゑ 作品集