堤防をゆく翁らを遠くより人別し得るよ村人なれば

我の歌から「元気を受けし」記されし未だ見ぬ女の水茎の跡

病人のプライバシーが守らるる薄きカーテンこの一枚にて

八十路まで生かされたるを謝しつつもなほ明日あるを願ふわれなり

暖冬に勢ひ付きし畑草は青青とあり実を持ちながらも

乳色の濃霧の中を疾駆する診察予約を午前九時にて

気配ありと見るより早く飛び立ちぬ鋭き声を残して鵯

ふたたびは還らぬ時と知りつつものうのうと過ぐ凡人われは

幸せと思ふ刹那の多かるは御迎へ近きか胸に手を置く

先月を此の待合室にて会ひし人の訃報が今朝の新聞に載る

マスクして首をすくめて衿を立て「柴田の鯛焼」へ並ぶ人らよ

西空ゆ東へ向けて流れゐる紺碧の下の白き綿雲

一人にて持ち運びにし米袋今では嫁と二人して待つ

奮ひ立つ心もあらず唯日々を平穏なれと祈りつつ生く

村人と週に一度のスレツチング幼子に劣る我の動作よ

大正琴を綺麗に弾かむと気負へるに心うらはら指は動かず

あれは此処これは彼所と片付けて二日後には探す置き場所

わが齢と同じとは思へず若々し君の背筋はしやんと伸びゐて

ふりかかる火の粉は己で払はむかわれとわが身を叱咜してをり

誰言ふとなく伝はりしこの話真偽の程は定かにあらず

わが村に男の子が三人生れ育ち高々およぐ鯉幟三本

高台の我が家の窓ゆ眺むれば凌霄花の朱鮮やかに

木蓮の花ことごとく天を向き笑ふがに咲き今咲き盛る

今日ひと日為すべきことをあれこれと思ひ巡らす朝床ゐて

幼少にてその母を亡くしし苦労話を友は明るく話して聞かす

夕暮に流るるチャイムの「ふるさと」に来し方思ふちちはは憶ふ

梢にて数多の鵯競ひをり生りし一つの柿の実巡りて

わが村を忘れしならむかひと月を降らざる雨よからからのつち

見上ぐれば月に暈ありあしたにはあの人に会ふ傘は虹色

つと置きし眼鏡を探せば夫は言ふ「置いた所にあると思ふよ」

蝋梅の黄色の花のさゆらぎにかそけき香り放つと思ひぬ

坂を転ぶ手毬の如く衰ふる躰・機能を吾が知りて生く

夕光は空を茜に染めゐしに予報は当りてしとど雨降る

晴れ渡る夜空と見るに黒黒と雲の厚きが月にかかれる

我が体思ひのままにはならねども生かされているを悦びとはせむ

眉を描き紅をばさして装へど「八十路は八十路」と鏡が囁く

刻々と緑いや増す田を山を目覚ましぐさともわが朝毎の糧

満開の桜の花のその下に宴する彼の極楽の顔

東京に住む娘のもとへ行くといふ友との会語途切れがちなる

七十年を眺め来たりし公孫樹なり伐られしあともわが裡にあり

明け方の浅き眠りに見し夢に雪のひと日をほのぼのとをり

溺るるは藁をも掴むと初めてを鍼医者に行く目眩ひ治さむと

我が村に最年長の翁あり一番元気で一番働く

父母の我にあたへし「和」の文字にこだはり続けて生きては来りぬ

真夜覚めて採り忘れたる無花果の赤紫の甘味を思ふ

いつしかに人に甘えしわが心気付けば頬を打たれし心地ぞ

涼求め木陰に寄れば「ぢぢ」と鳴き蝉は飛び立つ小便放ちて

自転する地球の隅に眼を閉ぢて息をひそめて我は生きゐる

吊されし玉葱競ひて葉を伸ばす空中栽培してゐる如く

籠りゐし己が体のふと軽し今朝の室温十度となりて

刺す如き胸の痛みに目覚めたり夢に刺し来し言葉の傷かや

父母を支へし船曳ドクターの言葉は今の我をも支ふる

しみじみと生かされてゐるを想ひつつ残る一枚のカレンダーはづす

事毎に我を一喝する夫の声の大きさにほつとしてをり

実の細き虫喰ひ小豆と思へども酷暑を耐へ来し小豆よ小豆

県境を通ればその都度「カーナビ」が「兵庫県です」と教へてくれる

敬老会の招待通知を受取りて嬉しくもあり侘しくもあり

患ひて癒えて患ひ又癒えて今日梅雨明けの青空を見る

運転を諦めをりし我にきて車の購入すすむる族

ゆくりなく会ひたる友と立ち話雲一つなき青空の下

成人式に振袖姿の孫の由香薄化粧もしてわが前に立つ

とりどりのシクラメン並ぶ店先に夫の選ぶは小さき紅色

死ぬならば「ころり」と願へど今日明日といへば私は「ちょっと待ってよ」

雨の無き秋の落葉よかさかさと触るればくづれて土に還るか

共に咲く秋海棠には目もくれず蜂は擬宝珠の紫に寄る

消されても消されても尚燻ぶれる焼きすくもなりわが情熱のごと

木枯らしに乱舞する公孫樹の葉の中に子供のままの我が立ちをり

「わたしにも少しは良い所あるのよ」開き直りて生きてゐる我

人気なき山の細道曲り角矢印示すか「美作市街」

ぎこちなき鶯の声聞こえ来て日記にしるす二月二十日と

難聴といへども聞こゆる鳥の声せせらぎの音春のおとづれ

大破れのジーパンはきて足を組む乙女の読む本『一分で自分を変える』

食器棚一つ新調せし厨嫁ごの顔も明るくなれる

置かれたる我の立場は姑ぞ老妻祖母にてもあり

「ちょんぎいす」一匹部屋にまぎれ込み梅雨のさなかに「ちょんぎいす」と鳴く

草刈機のエンジンをフルに吹かしつつ草を刈り行く本家の翁

痛む足をいつしかさする手の平よ我が手は我が足労わりてをり

早魃に命絶えだえの里芋ぞなすすべもなく只に草を引く

クレヨンの黄色を全部使ひ切る大公孫樹の葉の黄の黄色

何といふ爽やかさだらふ田中耕一さんのさらりと飾らぬ素直なる態度

道路拡張に移転止むなき地蔵さまユニックに吊られて空をゆらゆら

戻り来と家を廻りて告ぐる猫にしぶしぶと出づれば凍つるがの星

あの頃は新入社員なりし少年が我訪ひ呉れぬ停年となりて

「この国に生れてほんとに良かったね」七十二歳のおうなが三人

とりどりの花咲く季よりも萌え出づる新緑の季言葉は及ばず

メールのみ行き来しているこの夏を俄かに声の聞きたくなりぬ

早立ちの旅の前夜を眠られず「羊が一匹羊が二匹」

ひっそりと生きむと決めし吾が裡を引き戻すがに訪るる友

その母にあらがい見する女の孫の我にはやさしき言葉をくれぬ

冷えしるき夜明けなりけりもみぢ葉は一気に散るらむ夜具引き寄する

男の孫の帰省に女孫もその母も一オクターブ高く弾めり

窓越しに差し込む冬日暖かく座布団ふんはりふくらみてをり

短足をゆったり湯舟に伸ばしつつ裸婦のモデルのポーズしてみる

のぞきたる一ミリ程の白き芽に願ひをこめて今日籾を播く

田植をば若きに委ねて悠悠と我は行くなり初夏の短歌講座

小さき丈に重たき程の実をつけし莢隠元に存在感あり

過去は過去・未来は未来・今は今・うだる暑さに呟きてみる

その長男の招きに従ひ病む夫と東京に住まむと決意せる友

老い母の遺しし別珍の足袋はきて足許ほこほこ暖かくをり

夫の彫りし観音像は丸顔よ目もとやさしくその母に似る

久久の日差しを恋ひて布団干す心にぬくもり求めむとして

目覚むれば白一面の淡雪を染めて数多の椿の紅

あかときのまどろみに聞くつばくろの囀り姦し「起きよ起きよ」と

「今日の日よさようなら」と呟きてひと日を綴りしノートを閉じぬ

やや麻痺の残れる足の指先を一寸百足が咬みて逃げゆく

てきぱきと農作業する我がをり午睡の夢の中なる我なる

「初めての手習ひです」と友よりの絵手紙届く朱いほほづき

 北村 和子 作品集