わが為に改築なししと娘は言ふが先立つものをまづ案じをり
萠え出でし春の蓬の色も良く仮面の己とは我か知りて生く
目が眩ひて足の立たざる一瞬を脳裏をよぎるは「いよいよ最期」
虫の命も息子の命も命には代わりは無しと夜も眠られず
起きぬけに作りし歌も忘れ来て呆としてをり歌会にあれど
珍しき馬の欠伸に見る我も釣られて大き欠伸するなり
國境の無き渡り鳥日本に「鳥インフル」を撒きて行くなり
しわみ垂るる小町の像よこれならば今の私は負けてはをらぬぞ
萌え出でし春の蓬の色も良く仮面の己とは我が知りて生く
万作は菰に巻かれて店先に黄に色萌やし日差しに向きをり
寒しるく神か仏の導くか家人は知らぬに昇天をせり
暮れ迫り仕事の遅れを言訳する職人よ夫の七回忌迫るに
庭隅に長きを咲きし白菊が小さな花びら散らしゐるなり
山茶花の咲き初めの花は今朝をきし鵯の奴に早も食はれぬ
奉るを忘れはせぬがそのままに出来ざる事を彼岸に詫びをり
山ゆ来て山へ帰らむ白鷺の杉の上回る羽根の白さよ
決断の鈍き我なり悔みつつ見上ぐる空に雲一つ浮く
馬場山の上に見えゐし夕つ日が輝きもちて山に入りゆく
暁の目覚めの床の鶯の声は日毎にうまく為りきぬ
若葉マークも枯葉マークも無き車のつたり行くにわれも従きゆく
なす事のやたらもたもたし始めぬ老と言ふ奴が我を縛りて
谷水の氷も今朝は解けたるかパイプより流るる水音激し
山鳥の尾ほども長き挨拶に心づくしの猪汁冷めぬ
迎春の為に購ふ茶碗箸一膳のみも気楽とこそ思へ
友逝きてわが残生の思はれぬ白き山茶花はらはら散りつつ
賀露漁港張られし値札と息をして動く平目を横目に見たり
朝方の仕事の疲れも忘れをる万葉集秀歌の初日講座よ
山の端に積乱雲の湧き来れど雷神はこの里嫌ひて行くなり
ラッシュ時を避けて早朝を病院へ付添にゆく役には立たねど
紫蘇の葉をしっかり入れし赤漬けの色よし味よし気分も良くて
花に酔ひ花に浮かれし束の間も畑の草は蔓延しをりぬ
自らの影をともなひ行く道に散り急くがにも桜花いくひら
君麻呂にあれ程までに言れゐて笑ひて聞きゐる老は悲しも
雪雲の深く閉ざせる西空に飛び行く鷺もさぞ寒からむ
畳はる山襞つたひて昇る霧里を一幅の墨絵となしつつ
眠られず閉じたる眼に諸もろの喜び悲しみゆき交ふ一夜
止めようか否やめられぬわが足ぞ車検に注ぎ込む十二万円
紫陽花は咲きゐし形のまま素枯れ師走の風にかさかさと鳴る
豪雨にて墓地の参道崩れたり百六十余万円見積もられたり
一つづつ天与のものを戻しをり我は傘寿のやぶれ傘かや
青杉に問ひみむ我の老い果ていづくの風に吹かるるならむ
黄泉に旅立つ義妹を待つ如く睡蓮咲きゐる永安寺の池
梅が枝に百舌の生贄蛙ごは汗か涙か汁垂らしをり
濃さを増す青葉の陰に木の葉木菟啼きて行きたり姿も見せず
西空に月を残してあかときのしじま破りてはや鳥の声
裏藪に白梅の花の盛りらしかそかに風がわれに知らせぬ
棺桶に片足入れても広げるか片付けてをけ閻魔が通れん
東に月は清かに見ゆれども「かぐや」は見えずて餅つく兎
久びさの雨によろこび出し蚯蚓格闘の末蛙に食はれぬ
いつしかに月の雫を置く草に虫は集きて秋は来にけり
夏ばてに命の危ふさ思ひつつトマトの種を蒔かむと採りをり
何時までの命か知らねど葱の種いつものやうに採りて置くなり
今少し生き生きとして歌作り楽しみてもみむ老の行くてを
傘寿とて出雲大社より御祈壽の案内ありぬ我も老いたり
只でさへ貯へ乏しきわが脳に泥棒入り来て空となりゆく
一升に三十一個の小餅取り均一なれば心もまろし
苦瓜を採らんと伸ばす手の先にはや名月の冴えて見えをり
夏と秋ゆき交ふ月よ十三夜白髪の頭を上げ独り見てをり
茜空未だ残れど風立ちて芙蓉の花のほとほと落つる
夏ばてに命の危ふさ思ひつつトマトの種を蒔かむと採りをり
伸びのびのゴムにも似たるわが脳がオカリナの音に揺られてをりぬ
オカリナの哀愁帯びたるその音色乏しき五感を揺さぶりてゆく
独り身も楽だと思ふこの夕べ背に貼る湿布に苦心惨憺
生き恥を晒しさらして今日われの七十八歳の誕生日なり
紺屋川花の筏は漂ひて水面揺らして瀬に分れゆく
萌えいでし楊柳の間を吹きて来し風とおもふも頬なでゆくは
埋み火の恋の歌でも詠みたきに足痛腰痛色気空なり
鶯の声に覚むれど今少し寝床の中にその声きかむか
温かい大根の煮物が美味しいと口で味付けすすめる娘
夢の中早うはやうと追れゐて覚めて危ふきわが余生なり
風邪に伏し心細さの募れどもまだまだ死なれん仕残しがある
わが住処も鹿の住処か鳴き交すその声を聞く里となりたり
「でぼちん」の大きな瘤よ山姥とはこの様なるややれ恐ろしや
トリノへは行ったつもりで写し出すテレビに合せて一喜一憂
庭先の柿の若葉がてらてらと夕日に光る久し振りなり
江見にしては打上げ花火の数多かりごうち山の猪も三日は出まい
雨の中を哭き続けをる蝉なれば鳴けよなけなけ一代は七日ぞ
日の光波の光のかがやきに歌碑の除幕す神島日光寺
艶やかに光りてをりし富有柿寒波にさらされ梢に泣くがに
吹く風に誘はれ散りし山茶花の白色はやも土に還りゆく
一匹のみ残る鈴虫雌にしてしなやかに強し人のをんなも
生れ出でて一代七日の命なら暮れてなほ鳴く蝉いとしかり
着たきりの大連よりも寒き今日憶ふは若きにまかせて耐へしこと
昨夜よりの雨を宿せし白萩の弛みたゆみて玉露散らす
ひと朝の命つくすか咲きそむるうす紫の露草の花
姿見の井戸水涸れて草生ひて三大美女の小町は映らず
我が祖より継き来しものは弱き意志やりたくなけれど子はつぎてをり
青春の心に刻む夢あまた昼寝の夢に出で来てやまず
手も口も出さずと決めし稲作り尋ねらるれば身はのりだして
この年も半分すぎたと虫眼鏡の向かうの目高に話しかけをり
古くともわが住む城なり今日こそは掃除をせねば僧侶が見える
帰り来て農作業する手際よさも気の短かさも夫に似る子よ
低空を飛び来し自衛隊機が左翼上げ日本原へと航路変へつ
血の沸きて肉躍ることも無き我と思へよ貧しき歌を詠みゐて
草を引く我に寄り来る蚋にして如何ほどの魂その身にもつや
寒しるき夕を飛び行く飛行機を暫し見守る孫の乗務するかと
暮れ早き夕を風の運び来るすくも焼く匂ひしばし漂ふ
身の廻り品奪れて堪へし大連を想い出ださす今日の寒さよ
幾重なす山襞這ひて昇る霧木芽吹かしの雨となりゆく
漫画家を夢見る孫の描きしといふ「ラヴリーコンサート」の案内が来る
雨の気の未だ上らず仰向けば梅の新葉がつぶら実抱く
郵便夫の赤い単車をいそいそと迎えてみれば年金値下の通知
梅雨ぐもり活力失せしわが体蝮入りドリンク飲んでもみんか
大型車の通りて行けばしだれ咲くねむの花散る雨打つ路に
花笠の小人の踊り行く如くひがん花咲く墓へとつづきて
蛾が入りて汚れし空気かきみだす籾摺終へて疲れし宵を
雑木木の色移りゆきて舞ひ散れるもみぢにし似る我の一代か
切る切ると言ふ声ききしか梅の木は実を鈴成にし枝垂らしをり
もたもたとトマトの屋根を作る我を見てゐし鴉か阿呆と鳴きぬ
日の暮れを待ちてほうほう蛍追ひし古里遠く我も老いたり
わが前に「携帯」片手に割り込みし茶髪の女は子供連なり
我家にも天変地異の余波ありて大工も屋根屋も来なくなりたり
すは地震と飛び起きにけり家ゆりて屋根より落つる雪の轟音
朝ごとに障子あくれば日の昇る位置少しずつ東へ移るか
パズル一つ解き終へ見上ぐれば鳶一羽が空に丸かく
柿の木のある故もとめし此の畠を墓地になしゐて初彼岸なり
足痛のわれの歩みにつく影もわが躓きたれば従ひてをり
表戸の鍵を閉めずに待ちをりぬ娘の訪づるる予感のありて
稲もでき稗も上でき夫の知らぬ息子とわれの稲作りなり
オリンピック招地に沸きたるロンドンに同時多発のテロの惨事よ
今日もまた三十三度をこす暑さされどこの身は細りて行かず
籾すりて子は一番にその娘に送るは精米二升玄米二升
過疎の邑は湖底の如く静かなり霧深き日曜物音もなく
亡き夫は巷の土に帰るとも主なき時計は動くを止めず
年の瀬を貧乏雷落ちてきてわれの脳天一撃されたり
フルートを只一心に吹く孫の面立ちすでに乙女となりをり
黒石 貞子 作品集