西空から雪雲低く被ひきて人影一つだに見えぬわが村
祖祖より使ひ継ぎ来し漆器にて大事に仕舞ふ正月すぎて
年の瀬に古新聞を縛りをり大震災の数多に載るを
秋晴れの一日は終りて腰痛も忘るるほどに新米美味し
取り残りゴーヤーの幾つがぶらぶらと夕日に光るか真赤き身を見せ
「期限切れにならないうちに食べておこう」言ふより早く食道あたり
西の空より雪雲低く近付きて洗濯物を急ぎ取り込む
笊に干す切り干し大根乾きゆき仄かに甘く匂ひ立ちきぬ
うつすらと雪化粧したる山山に両手を合はせて祈りゐし祖母
物置きへ入らむと開くればわが傍を猫が飛び出す光のごとくに
年頭の友への電話に長長と孫子を言ひてわが歳思ひて
早朝の作州を出で来て歌人の集ふ丹後よ秋雨けぶる
親子して植ゑにし檜の五十年夫と息子は見ぐるばかり
足の痛み次第に癒えて今日よりは遠廻りする一万歩めざして
昼の暑さ残れる部屋に涼風が虫の音のせて吹き抜けてゆく
缶ビールの冷えしと卓に並べ置く三十五度の暑さを言ひつつ
梅雨明けと予報のありて炎天の通りに人の影さへ見えず
「初孫を見に来てほしい」と電話あり農良着を脱ぎて隣りへ急ぐ
味を変へ器を変へて食卓に茄子やきうりの惣菜を並む
大洗濯なさむと思ふに降り来たり夫は代掻く準備なしをり
春の陽に国旗校旗の翻り中学校の新校舎成る
向う山ゆ吹き来る風よ運び来よ笹百合一輪の花の香りを
池の鯉をねらひてをりし青鷺が網にかかりて飛びたてもせず
くぐまりて草を引きゐし老い母を憶ひつつ吾も庭に出でをり
高校生の育てし緋鯉と愛しみて朝な夕なをながむる夫よ
難聴と言ひつつ集ひの中にをり笑顔のあればそれに満ちゐて
白菜は無野薬育ちと決めゐしに黄の蝶舞ひて青虫太る
足の痛みやうやく癒えて川の辺を自転車で走る風さやかなり
いたづらをすればお灸を恐れしを思ひ出しつつ灸を据ゑをり
かはきたる音のかすかに聞こえつつ小さき壺に納まりゆく叔母
夫の見るテレビに近く寄りゆきてやうやく聞こゆボリュームあげて
その顔も知らぬ孫等が集ひ来て五十年忌の祖父の法要
疎みゆくわが大脳の潤滑油探さむとして厨に立ちぬ
親しみゐし老舗の味のまろやかさ煮物に醤油の最後の一滴
目の前に青鷺ゆたりと飛び来たりわれと向き合ふ朝のしじまに
船頭の歌ふに和して口ずさむ「いつか来た道」今日白秋忌
古刹もよし新しき御堂も重重し信徒の願ひこもる寺寺
祖祖よりの小さき棚田を耕しゐし父母なりしを吾が知りて生く
取り込みし真白きシーツにひとひらの楓落葉の鮮やかなる紅
美術館を出で来て見上ぐる青空に雲一つなし深く息吸ふ
コンバインの音の谺の聞こえつつ厨に夕餉の飯匂ひをり
美容院の鏡の中に居る我に母憶ひをり白髪の母を
早苗田を真っ赤に染めてしずしずと山に入りゆく夕日の丸さ
衰へし脳がなほさら麻痺せしか今日はエンジンかからざりけり
命つよく菖蒲を画きしその前にしばし立ちをり背筋のばして
嬰児を抱くがごとき温もりの伝ひ来るなり生みたての卵
陽に干しし母が衣は手習ひに我の逢ひにし紬の着物
歌を詠む話は尽きず夜は更けて日付が変ると切りたる電話
セーラー服にて茶道を学ぶわが姿回顧展に見出す六十年を経て
治療後の夫の検査のその結果聞きてやうやく見合わす笑顔
鳥取のみやげと買ひ来し牛蒡よりはらりとこぼるる砂丘の砂が
新総理決まりて暮らしは如何にならむ吾も今日から後期高齢者
何もかも忘れて呆とすぐる日の友の電話が慈雨ともしみくる
おくれ毛をなでて緑の風が吹く梅雨あがるらし日差し明るく
梅雨晴れの風に揺れつつ散る沙羅の紛れゆくなり草の青さに
芋の葉に触るればはらりとこぼれきて受くるわが掌に冷たき雫
熱暑の夏すぎてひと日を降る雨よ生きもの皆にもどれる生気
わが村の集ひの終りは足腰を労る言葉でおひらきとなる
抜歯して前歯三本なき日日をなほ母さんにそっくりと言はる
音楽碑のキーボード押しつつ口ずさむ「青葉の笛」よ須磨は新緑
わづかばかりの草引きたるにその夜は両肩に貼る湿布薬二枚
わが齢を褒めて案じてその資料置きてゆきたり保険外交員
裸木の耀ふ一月なかばにして温暖化は言はず日溜りの中
わが家を抱きくるがに迫るがに向う山あり今朝は白銀
かかり来し電話に出ればわが声を若しと褒めて化粧品すすむ
花のなき十月尽の長谷寺を静かに包むか小雨のベール
遅播きなれど蔓はか弱くのぼりゆき浮子のやうなる瓜の見えそむ
終日をチエンソーの音響交ひて杉の木立の整ひてゆく
朝霧に裾のもみぢも山脈もつつまれ始業のチャイムが谺す
窓打ちて吹雪くをききつつ従妹への小包作る柚子みそ添へて
突風に折れむばかりにありし木木夕日に光る何もなきごと
縁側の午後の日差しにうとうとと居眠りゐたり味噌炊きを終へて
小野小町紫式部と訪ひ行きてみやげに「夕子」を抱きて戻る
杉木立のあはひに湧きて聞こえくる苔むす谷の確かなる息吹き
うち揃ひ田植ゑなししを思いをれば今朝の代田を田植機が行く
山百合の香りを家内にただよはせ今宵を集ふ客を待ちをり
われを見て駆け来る犬を抱きたり私も大好き「隣りの舞ちゃん」
しゃりしゃりと洗濯物の乾きつつ冷えしメロンを独り食みをり
大根を蒔き来て朝餉を食む時はひときは旨し味噌汁の味
晩酌の夫の機嫌は上上とその妻は言ふ受話器の向ふに
ぽろぽろと椀よりこぼしこぼれつつただひたすらに飯食む母よ
吹雪き来てガラス戸に着くぼたん雪雪涙のごとく垂りてゆくなり
呼びかくれば僅かにうなづく母と在りエアコンの音にぶくひびきて
雨にけぶる桜並木を見おろして夫と二人の茶房は静か
行きも戻りも客一人なるローカル線二駅乗りて吾は降りたり
娘の顔を見つむることもなき母が小さく口あくさし出すスプーンに
もしもしとダイヤル通話からプッシュホンへ今はケイタイに笑顔を送る
新しきマンションの灯は点りゐて子等らのはしゃぐを川越えに聞く
青鷺が飛沫をあげて飛び立てりカーテン開けたる刹那を池より
自衛隊派遣のニュース見てをればふつふつ煮ゆる黒豆の音
滑りたり転びて歩む雪道よ七十年の生き来しに似て
親の身を気使いをれば向山の桜の蕾ふくらむらしも
ここからは私の世界と締むる戸をなほ突きぬけて蛙の大合唱
腰痛にそっと踏み出すこの足が我の足かと摩りてもみる
精米機の真白き米を手に受けぬ唐臼の音裡にありつつ
気にかかることの一つが解けてゆき間引菜洗ふ水を湛へて
声あげて駅伝中継見つめをりわが町の中学生たすき渡すを
幼日の勘がしだいにもどり来てわが手に弾むお手玉の音
すぎゆくを止めるすべなし川の辺を流れに添ひて歩みゆくなり
華やぎを水に浮かべて流れゆく桜並木に添へるせせらぎ
地蔵尊の祠のなりて村人の経あぐる声川瀬に和しゆく
近づき来て今し西瓜を取らむとする猿がふりむくわが大声に
取り出せる辞書に「過疎」とふ文字のなし子等の使ひゐし古りたる辞書には
中川冨美枝 作品集