「柔らかい手ですね」なんて言はれつつ美容室にて半分女
埋めるといふ言葉を思ふ何もかも包みて雪は静かに積もる
「てっぺんは雪じやもしれん」と柚子を採る夫婦が話すか那岐領は見えず
落葉はき落葉ひろひて休日のまどかに過ぎぬ訪ふ人もなく
帰るより腹が減ったと言ふ夫に時を見やる深夜十二時
家はすでに終の住家にあらずして絆を言ひ合ふうすら寒さよ
若さとは羨しきものよ屈託の無さにばつさり切られてしまふ
旧友の手術は明日 寒の夜を金魚は水槽の底ひに沈む
勝手口を出でて目が合ふ「戸を開けて入る」と近所でうはさの猫に
寝ころんで仰向けに見る天井の角に見つけた蜘蛛の巣がゆれる
姉妹して母に内緒の相談は母との秋の一泊旅行
突然か予感はありしか今枝を離れ落ちゆく桜わくら葉
要らないものは全部焼くよと電話にて言ひつつ見てゐる子の通知票
ほつほつと灯が点りをり細長き空の下なるわれのふる里
新聞と等しい重さの広告が押し合ひへし合ひ来る元旦よ
子と同じ三十代の若者が餓死せしといふこの国の今
夫の炊くご飯ふっくらおいしくて「蒸らし何分」とつい聴きてをり
寄付せよとおっしゃるけれど今ちよつと持ち合はせなし愛というもの
早朝を子猫のごとくに鳴く犬が下僕となせり己が主を
わがままなる互ひを責めて狭まりぬたつた二人の無言空間
煮えきらぬことば今にも降りさうで降らぬ夕立夕すげが咲く
斜に構へ無雑作に言ふか「無理すんな」まだまだ母を侮るなかれ
逆光に海光るなりこの人でなくてはならぬと決めし日もあり
格好良さの基準は何ぞ諦めず五十七歳じたばた生きる
帳簿付け深夜眉よせ小銭まで数へてをれば守銭奴と化る
空腹と飢餓とは違ふと思ひつつ歩きて暮れて冬初遍路
立ち替はり人の棲み継ぐ家にして言葉少なき男が棲む
月見とて集ひたるにや月も見ず男らは飲む我と月置き
「だめならばいつしよに死のう」酔うた果て言うては飲んで別人となる
客間より時をり大きな笑ひ声「まだ三十」と子の声もして
本当はあなたの事を認めます小さな事はみなさて置いて
冒険か無謀か雨に打たれつつ水嵩増しくる沢を下りゆく
甘えをば悪しと思ひて育ちたりポンポンダリアの円さを嫌ふ
美術館通りの欅は青葉ひさびさに相逢ふ人は変らずやある
雨の日をあてなく走るかなりゆきで所詮独りと言うてしまって
鬼蜻蛉この我などには目もくれず使命あるごとく過りゆくなり
ものも言はず家を出で来ぬこのまんま行方知れずとなりたき秋空
萩に風かへらぬものは還らぬと告ぐることこそやさしさならむ
身をよぢり乾き尽して私を嫌ひかと問ふ赤とうがらし
母なれば時を帰る子のために曲がらぬ膝を曲げて菜を採る
寒風の中戻りきて息を吐く薄紅の頬の髪かきあげて
予期もせぬかなしみが湧くあたたかき赤子に指をにぎられし時
川岸に男の子が二人釣り糸を垂れて明るく春待つ話
その母をつひぞ語らず父は逝き並ぶ墓標に春の日は差す
口を出し手を出したうたう取り上げて「さあできたぞ」とうれし気に言ふ
ざっくりとためらひもなく切り裂けば刃を抱き込みきしむ甘藍
無愛想が売りもののやうな顔をして無視してくれるからまた会いに行く
ぴちぴちと跳ねる岩魚を掴みあげ竹串に刺す手が男なり
もうぼつぼつ互ひをいたはる年ですよもっともらしく私が言ふ
五十代半ばを生くる同志として語るは口惜し初恋のひと
単純で頑固な男昔から豆腐は木綿と言ひて譲らず
帰るとも帰らないとも言はぬまま出たら出たまま春はうらうら
したたかに酔ひて見上ぐる春の月なにかが足りない日が過ぎてゆく
忍ぶがに流れきたれる山霧にまかれて消えむわれらもまぼろし
振袖がわづかの風に揺れをりて離りゆきし娘の部屋には風のみ
私たち結婚します複数の最小単位の二人が並ぶ
皇后となりて施し観音の像と化りても不比等の娘
切り落しぶつ切りと記し売られをり家畜と呼ばるることもあはれに
空を蹴り空を掴みて泣き叫ぶ不思議なるものを夫と見てゐる
悪態をつく時の眼は輝きて八十八歳独りで元気
巡るとも還らざるもの憶はせてかなしき色に咲く 曼珠沙華
瀬を跨ぎ水汲みくるる浅黒き男の腕太すぎもせず
屈託の無き明るさよ久びさに若き男の笑ひ声聞く
願ひごとは笹の葉に揺れ本堂の大屋根にかかる北斗七星
右下がりのなで肩の背わびしくてぽんと叩いて挨拶をする
バス停に媼三人が喋りをり二時間に一本のバスがもう来る
西日差す部屋に残れる赤と黄の風船が少しすこしすぼみぬ
入矢 敏江 作品集