いつまでも元気な親を演ずべく子からの電話に声を張り上ぐ

不覚にも転びて踝骨折す一寸先は闇にて候

吐く息の霧の白さに見え来れば松茸生ふと祖母は語りき

転ぶより先に手を出すその仕草なし得ず転びて膝を抱へる

「携帯」はまこと便利よ今日も又隣の媼の「お茶よ」のコール

「高一」と「中二」の男孫の握る杵杵にて仕合ひか杵音激し

男孫等の杵音やうやくととのひて一斗二升の餅搗き終つたり

波寄する大浜に建つ母子像よ爭ひあらぬを祈るがに立つ

新米を蔵に納めぬ男孫等が皆して運べば「あつ」といふ間に

思はざる台風により稲刈の遅れて伏すをやうやくに刈る

猪と鹿とに稲田を侵されて汗して巡らす網二白米

わが村に救急車の音また響く今度は誰ぞと案じつつ聞く

水田の稲は幼穂形成期人にてあらばと辿る幼日

馬鈴薯の葉の色褪せ来る今日こそは掘らむと思ふに俄雨降る

畑よりの帰りを木陰に草風取りつつ聞きをりその孫自慢

枕する耳に覚えの声聞こゆ庭池に住む蛙覚めしか

寝ね難き暑き今宵ゆ啼き止まぬ声は蟬かやわれ押しつつむ

わが走る車前を過るは鼬か貂か命の危ふさまざまざと見つ

種蒔きて育てし稲を猪は夜毎踏み敷く「電柵」なすも

短歌には命写すを詠みたきに今宵は刺し来る蚊をひとつ打つ

朝早く草引き真昼をまどろめば夫と葉煙草穫りてをりたり

見慣れゐし中学校舎は影もなく重機が高々首を上げをり

肥やしにと米糖撒きしわが畑は朝を夕べを雀の食卓

眼球の水晶玉の模型にて白内障手術を医師は説くなり

紅葉なす山にひときは日に映ゆる楓ありたり燃ゆるがごとくに

病むと言ふ淋しき笑みが最後にて今も消えざる弟の笑み

降り続く雨に草丈伸びゆけど無為に過ぎたりわれの数日

わが家を子等は巣立ちてそれぞれの巣を構へしに何を淋しむ

ただただにテレビをつけて呆と居り連休終へて子等は去りたり

実桜のひと足早き満開を寄れば羽音ぞ唸るは蜜蜂

希望せし大学入試叶ひしの報うれしきに声を上げたり

山畑の梅のつぼみの赤らみて枝のほちほち春はのぞきぬ

良きにつけあしきにつけて指折りつつわが記しゆくは三十一文字よ

われよりも若きはらから葬り終へ皓皓たる月の下を帰り来

流れ星見むと出づれば肌寒く鳴く音の細きが闇に沁みゆく

いろせとも見むと詠まれし二上山臥せる大地の乳房のごと見ゆ

活き活きと生きの盛りを映し見す岡山代表倉敷商高

雹含む雨すさまじく降り来り丹精のたばこ葉叩かれて落つ

久々の草履を履きて登る足その指弱るか鼻緒外れぬ

山山の若葉の色の鮮やかに日日の勝りの美しきわが村

暁け白む空に眉月残りゐてちちと声ありこれが朝を

地下足袋にて踏みゆくわれの足裏に応ふる草草はやくも春めく

春立つを知りてや葱の青青ととがり立つなり霜も恐れず

よろよろと立てば心も老いゆくか身震ひするは寒のみではなし

向う山に猟犬駆くるや時に吠え鈴の鳴る音が右往左往す

大菊の輪台支柱を解きにつつ来たる年へと想ひを馳する

老ゆる身と知りつつ心は求むれど山茶花赤く赤く散りゆく

青く浮く地球の上の針先だにあらぬ畑に大根を蒔く

別府へのバスの旅なす山住みのわれに窓の外山また山よ

波寄する淡路めぐれどおきふしは美作で良し山里で良し

幾度も味はふ注射に慣れ得ざりわれとわが身に童住むらし

けろけろろ夜更けて覚えし声を聞く去年の蛙か身を借る夫か

しとど降る雨滴たらせふくれ咲く馬酔木の花になほしとど降る

見し夢は夫在りし日日覚めし身の現をこそは夢ともしばしを

雪に伏す枇杷の枝をば引き揺れば羽搏くがにも立ち上がりゆく

切りてゆく爪の硬さよこの様に心の柔さを失ひゆくらむ

わが家には立ち寄らざりし郵便夫ただそれだけの寒き一日

大輪にやうやく菊は咲き出だし傾くあれど初歩なれば足る

ダイエットなすと女孫は告げをれどややに太きも良しとつぶやく

足取りの遅きは季節の気配をも気付くは遅きかはや紅葉散る

街路樹の紅葉なしゐる花水木今し夕日に己が身燃やす

候補者の依頼の文は夫宛ぞわれは止むなく仏前に置く

急逝せし弟を祖父と慕ふ児等嗟嘆の声の耳を離れず

なじみなる五十余年を生きし昭和加へて早も二十二年ぞ

工場を建てゐる重機は四基なり意思あるごとくアームを伸ばして

わが爪は硬くなりたり過ぎし日に切り遣りし母の爪のごとくに

入道雲と語ればその意味問ふ孫に入道に似る雲を探せり

泳ぐ孫見つめて汗を流す今北島選手はゴールドメダル

その形浮かぶもそれの名は出でず薄れし記憶に臍を嚙みをり

「さあおいでおいしい味だよ桜んぼ」朝から晩まで鳥語姦し

持ち時間幾許ならむとふと思ふ思いがけざる人の逝きたり

わが心すべて知りたるわが月と見入れる今宵の中秋の名月

この年も「とらちゃん田圃」は彩られ今日も車を止むる人あり

食べて良し旅も又良し昔より死ぬなら十月中の十日と

入道雲と語ればその意味問ふ孫に入道に似る雲を探せり

蒔き置きし豆をふくらます雨なれど地震に潰えし家に降るも雨

降りつづく雨に休まず生ふる草耕し置きしに畑は草畑

己が吐きし言葉に己も傷つきて覚めたる夜半を寝返る幾度

早苗をば産毛のごとく光らせて邑の水田は活き活きとあり

鋤きてゆく耕運機をば逃れ跳ぶ蛙は未だ動きの鈍し

植ゑられて百年余を咲く白木蓮花を愛でゐし人はかなくて

「元気かい」と息子の不意の電話なりその同僚の母訃告げて

インドネシアに墜落事故のありし夜を点滅なしゆく光を目に追ふ

一粍に満ちぬ双葉が露かかげ命示すか葉たばこの苗

ころころと黒豆転がし選りてをり明日は男孫のセンター試験

サーキット場より伝はる爆音耳に入れ負けじと黒豆打ちてはこなす

すっぽりと大根抜けばそっくりの穴を残すか在りしあかしと

雨無くて豆の葉落ちゆき草枯るるれど朝霧浴ぶるか菜は育ちゆく

独り暮らし匂ひますかと籠置けば豪勢ですねと「レジ」の娘は笑む

足三里に灸すゑをれど芋掘りて明日帰り来る子に持たせやらむ

野も家も明日をも埋めむ霧の朝誘はるるままに出湯への旅

極楽よりたらせる蜘蛛の糸に似て下がれる糸に木の葉あやふし

杵音の響きはじめて腰下ろす裏方今年もまづまづつとめて

蒼穹に枝さしのぶる樹樹なればその根は網とも地を占めをらむ

むずむずとうごめきゐむか梢先の夕べの雨を霧となす山

籾運ぶ道辺に見ゆる「モモッチ」と「トラチャン田圃」は今日も人寄す

並びゐる地蔵の膝元雪解けて一円玉の賽銭光る

春疾風トタンの屋根をきしませてわが村抜けゆくわが裡抜けて

ふくふくと山青めるを見てをりぬ初運転の女孫の横にて

植ゑ終へて南へ下れば植ゑし田も植ゑゐる田もあり田は親しかり

己が身のおのれに見えぬ己が背を聴診器這ふ裡のぞくがに

降る雨を所在なく見る庭の面に止まず生れては消ゆる水の輪

蔓豆の互ひに絡みて伸び上がり空まさぐるか曲がれるその先

幾度もよろけ躓き危ふきを無事に過すは生かされゐるのか

昨夜見し夢のひと駒在りし日の夫にまみえし気分に覚めぬ

稔り田をからくれなゐにふちどるをかなしき色とはいつのころより

日溜に咲くサフランの花を摘み赤き蕊抜く甘き香の中

言はむとする言葉失ひうゐたるを度重ねつつ暮るるこの年

振り帰る吾の視線に手を振りぬ老いたる姉は円く小さく

如月を風邪にうつくつ籠る間を土の面づらに尖り芽伸び来

戦争は映像さへも御免だとチャンネル変ふるも砂塵のイラク

降る雨の珠すべらせつつ牡丹花は壊るるがにも咲き出でにけり

親方なる父が断ちいる大銀杏万感溢るるか互の面

物の無き幼日の性引摺るか又捨てかねて衣替へする

梅雨晴れを満月の空ふか深と十万億土を現に見るがに

途切れ鳴くひぐらしの声途絶えにし師の声かとも胸に落ちゆく

蕎麦生ふるを見るたび祖母は語りゐき「蕎麦の花咲きゃ熟柿が喰へる」

鳥のごと吾も塒へと没り日追ふ日帰り旅のバスに揺られて

今一度生き直せたらと蟋蟀の躯が土間の隅にて嘯く

折るるがに伏しゐし枇杷の雪溶けて蕾なす枝おづおづと揚ぐ

埒も無き繰り言のごと喉が鳴る贖罪なるか咳き上げ咳き上ぐ

山も野も雨にかすみて過去のごと朧なる日よ過去に遊ばな

木木芽吹く山分け入りて息太く吸ふなり芽吹く気に肖らん

癌検診の造影剤を息つめて飲みをり記憶をたぐり寄せつつ

この朝を羽化なしにけむ夏蝉の露に透くがの身の動かざる

山路くれば乾きし地肌に伸ぶる萩暑し暑しも生くる証ぞ

夜毎降る雨は寒さを伴ひて羽の抜けたる鶏も動かず

親愛をこめてや炬燵のわが素足嘗め来る猫の舌とげとげし

並べゐしかるたのごとくかき餅を干しをり巣立ちし子の空き部屋に

禁煙の言葉哀しく響くなり葉煙草育苗の管理なしゐて

銀の鞘抜きてあまたの鋭き穂をば白木蓮は空に向けたり

畔焼きの煙はゆっくり棚田這ふ「オーイ出番」と田ごとに告げて

幼日に帰りて木苺食みをれば変わらぬ鳴き声「てっぺんかけたか」

下水工事のユンボは容易に掘り上ぐる鉄管土管わが家の歴史

国敗れしを泳げる友に告げむとて駆けたる河原の石熱かりき

簡単に転ぶ体となるわれをあはやと支ふる見えぬ手のあり

わが蒔きて育てし早苗の風受けて風の流れを見するまで伸ぶ

水落としをせむとしやがめる「水戸口」より見ゆる稲株すべて穂孕む

夜を覚めて世界の覇者を争へるテニスに見入りぬ異次元のごと

挿せる期の遅れしものを大菊は咲きてくれたり命示して

来る年も菊作らむと寄す落葉かさこそ鳴るに亡き夫の顕つ

 黒石 登代 作品集