熟成を腐欄のあはひは紙一重かびの生え来しみかんを捨つる
冬咲きのクレマチスの花は寡黙にて竹垣に白き小鈴は鳴らず
暮れゆく川一筋の行く先や救急車の音が近づいてくる
口に出せばおもひとずれてくるやうで牛のやうに一人反芻してゐる
潮どきは「今よ今でしょ」七年は短く長く七つ歳とる
道いつぱいに群れゐる小鹿が目の先に見えてドクドク心臓が鳴る
股関節も膝関節も意識せず動いてゐたのは過去のことです
ふよふよにふやけてしろき金柑の実を落としても春はまだまだ
誰が魂を運べる風か空ゆ来し柊の花のかをりを連れて
温かでざらざらだつた曽父母とふたりして遊んだ足の指相撲
望遠鏡に見てゐる太陽黒点のやうに消えない染みもつ私が
すさまじき天からのシャワーワイパーのフル作動にも消ゆる夜の道
蛇が居たらやだと言ひ訳思ひつきまたも遠のく蔵の片付け
ちらちらと木洩れ日に透くもみぢ葉の小さき重なりまだまだこれから
達磨でも描いて出したらと横槍を入れる夫が居て達磨も描けず
空を指すメタセコイアのごと真つ直ぐに伸びよと送る孫への「写メール」
砕かれし玻璃のごとくにきらめける海の広量われの狭量
子も孫も猫もをろひし年の瀬をテレビは視得ず新聞も開け得ず
苔玉が終の住処とこの年を咲けば光のごとき撫子
ウォーキングプールの流れに逆行して歩き小さな抵抗といふにもあらず
傷つきしを知りて傷つくこころとはやつかいなるものおもしろきもの
束縛を解かれし蘚鉄の戸惑ひを知らぬ猫がゆく身もかるがると
誉め育てするべきでした猫でさへ「いいこね」と言えば目をほそめゐる
雑木林の霧氷が朝日にかがやける前世後世を私は知らぬ
木枯らしにポールがカラカラ鳴りつづきいよいよ気忙し何からしようか
ひとたびを潜れば飛べる素早さの川鵜が岩の上で考へゐること
あるがままに咲いて終ってゆけさうな林の中のガーデンに立つ
雹にやられ蔓のみうら枯れ立つ瓜に小さき葉萌えて何のかなしさ
雲の蓋とりしがごとくに晴れ渡る那岐連山の上の青空
今しばし出来うることありいつしかに乾燥剤はとけてゆけども
噂話が知らない所で広がつて今年の花の咲くコスモス畑
折りたたみの日傘がすぱつとたためない抱へて来たる西瓜にジレンマ
葛の葉の生ひ茂りつつ重なりつつ恨みつくすもなほやすからず
追憶を誘ふ梔子匂ふので何もかもビニールの袋に入れる
パーゴラを覆ひて花咲く木香ばら咲かせたつもりになってゐるかも
白鳥の親子の三羽はもう居らず川も時をも知らぬと流れて
トンネルを抜ければ迫る山や屋根おし黙るがにひといろの雪
祝はれてこんないい日のありしことをきつと思はむ死ぬ間際にも
熟れぬまま固くなりゆくをわが見をり人ではなくて無花果のこと
いじめる子いじめられる子雨の止みし舗装路はあをく空を吸ひをり
秋最中にカンナの花があかあかと咲きをり後にはもうもどれない
膨れっ面見せてポプラはよそよそし執念深いといふくちなはがゆき
近づけば見えなくなってしまふもの例へば那岐山・男と女
雨を呼ぶ風にバケツがころがって狂ひはじめる空も私も
しろがね色にやうやくに芽吹く初夏の山播磨から但馬への国境を越ゆ
朝毎に日に向き両手を合はせゐし祖母を憶へば山の端眩し
徒長枝を切らむとするに花梨はも枝の先まで力漲る
玄関に入れば蝋梅の匂ひがするもう少しやさしくならうと思ふ
水槽の底のへどろが沸くごとく浮きをり収賄聞かぬ日はなく
コンクリートの覆ふ斜面をからからと枯葉が落ちる急がなければ
この歳になりて知らざること多し知ればかなしき鹿の鳴き声
木木の間のやはらかい日差しがさし入りぬ手作りキルトの内なる闇に
ものの怪より人が恐ろしわが村も乗る子の居らぬ公園のぶらんこ
庇はるる温かき時にはうつたうしく菰に捲かれて直立つ蘇鉄
霜柱立ちたる土を押し上げてあをく角ぐむ春といふ奴
関節の痛む右の手中指の鉛筆だこもいつしか消えて
誤って押したばかりにパソコンの画面は消えてもどせない時
黄砂降り亜硫酸ガスも降りをらむけぶりゐる空に見えぬこの先
老神主の足袋の破れを何故に思ふ柊の花が散りつぎ
アスファルトに蝉のなきがら灼くる見つふいに逢ひたし声を聞きたし
記憶には残らぬ時を生きながらみどりごが吾の指をにぎりをり
日の差せば茎の翳うつす沼の蓮がつばらに見えぬ後悔などせぬ
ごちゃごちゃと定家葛は伸びをれど風車のやうなる花かぐはしき
真実も本心も言へず「黒いファイル」広げて語るを映すテレビか
水脈しろく残して船はばうばうの海に消えたり降る雨のなか
うすれたる記憶のごとも薄れたる子どもの文字にてわれらの文集
秋雨がしづかに降りて冷え込める萩はいよいよ頭を垂れて
花も葉もとろけてしまひしベゴニアのもうとりかえしのつかぬ数かず
雨後の土を盛り上げる霜柱かたく意固地になつてどうする
愛宕山の頂きからはいと狭き集落みえてわが生きの界
享保雛の能面のごときほそおもて変はり来し貌うつろひ来し刻
白根葵のうすむらさきの花びらがまぶしさうなりこの世のひかりに
見ず聞かずあるも安けき蛍袋の鐘形の花はみな下を向く
「八十日目やねえ」電話にて聞く名古屋弁遠くにあれば郷愁のごと
睡蓮の花を浮べて静もれる堀のめぐりに時すぎてゆく
気のとほくなるほどの時を経たのです中国山地のビカリアの化石
忘れてもいいよと言ってゐるやうなテトラポットに砕け散る波
誰彼の顔に似ている次郎柿に種の一つも無い頼りなさ
山帰来の棘まで隠した雪が消えテレビのなかに髭面フセイン
下駄箱に下駄は並ばずなりにけり昨日より私に一日過ぎて
ふいに水がかたち整へ立ちあがり赤に緑にしぶく噴水
はりはりと剥がしてキャベツの葉の裏に秘密のやうな青虫をみる
窓いっぱい朝のひかりが差し込んで思ひ出しさう思ひ出せない
どっしりと立てる大杉見上ぐれば秀先ゆらゆら揺れ止まぬなり
真逆さまに落ちむ恐怖はそれとして九十四階より見ても三日月
冷蔵庫を開けてはみたがはて何を取りに来たのか思ひ出せない
ぼたん雪仰げば空に吸ひ上げらるるここちのすれどこの身は重し
父の植ゑし梅に花咲き死後といふ時間ばかりがふえてゆくなり
「俺俺」かその手には乗らぬと構へをれば悪戯好きの同級生なり
軒下を目指して飛び来しつばくらめ紙のうすさに翻りゆく
暗がりに灯るラーメン屋の一つ明り見てをり何を恋ふるにあらねど
「デジカメ」も「ケータイ」も薄く小さくなり小さくなって消えゆく蛞蝓
目も口もありしままなるかたちして蝉の脱け殻はかの刻のまま
ふにゃふにゃと柔らかき猫抱きあげて私の後悔始まってゐる
日下智加枝 作品集