世を隔つる友となりたり三つ編みの乙女の頃の浮かびて消えず
病にて臥す友よああ又もとの君に返りて共に歌はな
すつぽりと町を包める霧の中なべてに幸あれ来る年をこそ
瓶に挿す郁子の実遂に落ちにけり度々その名を問はれゐたるに
飛ぶ鳥の軽さに生きむと今日までを名誉も富も欲らず生き来ぬ
窓開くより目に入るは闇の中に火柱を上げ燃ゆる向かひ家
今にしてなほ胸詰まり涙湧く出征兵士が汽車に旗振るに
八雲立つ出雲の海は厳かに暮れてゆくなり夕日を抱きて
安養寺の会陽に人は道埋め裸の群は湯気たてて過ぐ
遠からぬ春への思ひを馳せながら雪に降らるる梅を愛しむ
宮様も泊られしとふ田渕屋の毀されにつつ雪は降り積む
白月の照らす外界は斎庭ともましてや背戸に鹿のい鳴けば
みんなして作りし象のすべり台取毀されてレプリカとなる
オーロラや花火の如き雷光がカメラに撮られ宇宙より届く
子等と飲むビールは味が違ふのか下戸なる夫が二杯目を言ふ
加茂川の源見むと辿りゆく径辺に看板「熊に注意」と
友はみな今が一番幸せと言ふ過去にしあはせ無きが如くに
移ろへば季語も変ふべし颱風が次々と来る梅雨のはじめを
「蟬声」を読みつつも寄る蚊を叩き命をひとつ消してしまひぬ
日輪を涼むる月の仕業にや朝は暗やみぬ暮るるともなく
蕾から五分咲き・満開・花吹雪「ソナタ」に似るか桜の移ろひ
わが裡に誇りて止まぬはふるさとの光る加茂川岸の桜よ
六十年を斎きし棚の神々の御名や由来のすべては知らず
会ふことの叶はぬ友と知りながら又のお目もじをと書く年賀状
いつしかに柿の実も葉も落ち尽くし裸木さらす小春の空に
無造作に大きな袋を渡されて空かと見れば松茸一本
わが老いをいとほしむ歌の石文を誰そ読みくれむ同じ思ひに
わが家に津波の如く族寄せ「朝シャン」をする酒盛りをする
降りそそぐ春の光のやさしきに懐ふは古里野辺の草花
はらはらとはや散り初むる白梅よ実を結ばする命を残して
わが顔の剃られてをればその皺のなべて消えゆく心地にをりぬ
顔の皺しみじみ見れば八十年のたづきを刻める彫刻にも似る
梢高く柿の赤きが二つ三つ木を守りゐるよ留守居の如く
毀たれし老舗の跡に秋草の茂れるほどに過去を消しゆく
老いぬれば心が顔に現はると聞けば気になる眉間の縦皺
蛍をばほたるぶくろに忍ばせて黄泉への径の灯しともせむ
満満と水を湛へし奥津湖は過去を沈めて波一つなし
喧騒を避けて来たれる久賀ダムに鶯の声のみの時流れゆく
水仙に風吹き来れば歌うがにまた踊るがに揺るる黄の色
やはらかに霞棚引く那岐が嶺のその裾野なるわれのふるさと
湯に浸りわが行く末を思ひつつ柚子の幾玉足に遊ばす
朝飯は余り食べぬと言ひながらわれのみそ汁のおかはりを言ふ
女の孫の初ゴルフとて三世代勇みて出でゆく秋空の下
宇治に来て「上林」に抹茶を頂きぬ「お詰めはかんばやしでござゐます」の店
一つ家に集へる族三十六人犬も三匹これも族ぞ
八十才で逝きたる友を「若こうして」と嘆きし父も逝きてはるけし
道の辺に立つ看板の大時計の刻を違ふを言ふ人もなし
「こんにちは」と声をかけたくなるやうな畑仕事するやうな案山子が五つ
北へ帰る白鳥憩ふ屈斜路湖にわが町発ちし白鳥もゐむ
かくばかり悲しき「しまひ」はあらざらむ「浦じまひ」といふ言葉知りたり
この年を如何に生きむかねずみにはなりたくはなしさりとて猫にも
次つぎとわれに向きくる試練をば一つづつ越え厄年を行る
手話知らぬ二人の間にいつしらに二人のみなる手話生まれくる
山裾の旧家に友を尋ね来て大いなる蜘蛛に威嚇されをり
撫づるがに掻き立つるがに弾くがにハープにをどるは白き指先
現在を思ひのままに楽しまむ未来へのレールの果ては思はで
おばあちゃんの背中に聞いた子守唄を「もげ節だった」と娘は長けて言ふ
托鉢の僧に山頭火を重ねつつ恥らひ乍ら鉢へ喜捨する
ビールまつりの幟は加茂の川風にはためき我を昔にかへす
「ケイタイ」にアナウンスの声入りをり孫はどうやら地下鉄の中
取引はファックス注文・宅配便・銀行引き落とし言葉は無用
手孫負ふわれといつしかなりにけりたとへば独り梅仰ぐとき
大寒の今朝打つ鈴の響きよし香の煙も真直ぐに上る
濁り水の時を経につつ澄むごとくわれは美しくも老いてゆきたし
又しても老舗閉ぢたるわが町よ規制緩和の為せる災
月清き夜は形見の琵琶を抱きしばし偲ばむ在りし日の父
世の風が如何に吹くともこの道を行くほかはなし商ひの道
千円をさへ虎の子と思ふ同じ世に億超ゆる金の隠し処ありとは
甘樫の丘とも見ればさも見えて霧に浮かべるわが向う山
「二千円札使へますか」と腰伸ばし我におづおづ差し出す媼
歯の抜けた様な町だと言ふ人に入れ歯も出来ずと笑うてみせる
麻酔され削られてゆく不気味さに死にさうにをりたかが歯されど歯
米を研ぐ音も朗らにしゃかしゃかと子等の帰省に華やぐ厨
眼鏡かけルーペを持てどまだ解せぬもともと嫌いだった「鬱」といふ文字
柿若葉は注ぐ光を反しつつ鯉の卵の孵化がはじまる
父の釣りゐし川瀬は風に光りつつ姿顕たせぬびく持つわれも
家族といふしがらみが好き夏が好きやがて寄り来る族らが好き
勧むればなべて平らぐ男の孫よ食欲かはた心遣ひか
「もう」と言ひ「まだ」と思ひて挑む書は身に覚えなき恋の長歌
行き交へる京都御苑も更けゆけば蒸しの音しげき苑とやならむ
一つ貌にて生き続くるに疲れし日三面鏡のあがり目下り目
明日果つる日記めくれば空白もありて五年のわれの呟き
梁の太き生家に人絶えて積みゆく月日か筑後百余年
犬ふぐり踏まねば行けぬ梅の下あはれなるかな小さきものは
おそろしきものにはあらねど毎日を追ふものあるらし吾の背後に
大吟醸とワインをそれぞれキープしてスナックならぬ二人の食卓
親すべて送りてはたと気付きたりはや老い人となりゐるわれに
「指揮者がゐる」と孫の言ひしは名言よまさに蛍の光のシンフォニー
両の掌を丸く凹めて受くる桃お裾分けなる一個のおもさ
うから等の去にたる後の缶の山吾も囃されし宴の燃えがら
わからぬをわからぬと言へぬ愚かしさ杉の木立は真直ぐに伸びて
国境の高き山にし登り来て猪の如くに熊笹分けゆく
頭より文字も数字もみな消えぬ異次元の如き子の家にゐて
子の挑むは再生医療と聞きをれどわれは一度を老いて死にたし
頑なに口を閉ざせる蛤の滾れば洩らす声のかなしさ
伊豆の旅の河津桜は過去として鶴山の開花に心躍らす
汝が親を如何に見るやと問ひたきを問ひ得ぬままに初老となる子等
十円を得て百円を失ふといふ目には見えざる計算を知る
塵のごと錦鯉の孵化したり小さき体に色を秘めゐて
この夏も出船入船泊り船うから寄り来るわが家は港
京会席を真似て作れる松茸御膳初ものの香は厨に満ちて
凩に音階あるを愉しみてしばし聴きゐる浜坂の宿
純孝の歌に泣けるを愛犬の「空」にすっかり見られてしまひぬ
純孝の歌とし知れば胸に迫る「轟く砲音飛びくる弾丸」
「はせを」とはなにかと問はれ「芭蕉です」と媼答へぬやや胸を張り
歌声はソプラノなれどわが話す声はアルトにて夫に届かず
「故郷の土温かき」と父詠みき北支に散りし兄を詠みにき
目に見えぬほどの目高の子らあまた目を二つづつしかと持ちをり
葉隠れに小さき鳥の巣はありぬ空家の庭に生の営み
裏山に鹿の番ひが現れぬ昔の子等の基地にてありしに
角 利津 作品集