南京に穴をあけたる鼠めよマットを仕掛けて二匹仕留める
太陽が高くなりゐるわが峡に二時より前に陰る家見ゆ
貰ひたる十粒程の七夕豆二年目を経て三升の糧
わが峡の空いつぱいに広がれる鱗雲らの行進が見ゆ
テレビにて「ナツメロ」をみて凝視する額の皺よ口元の皺
一ときにエネルギーをば放出し止まぬ雷鳴に予定は崩る
梅雨明けのニュースを聞きて畑に出で名を知らぬ草と格闘をする
年金の少なかれども生活に欠かせざるものと日々を暮らしぬ
緑濃きブロッコリーの小さき実が膨らみゆくを日毎に見てをり
鍋類の収納場所に若布あり無意識に動く私の手とは
失敗の指摘をしつつ共に老ゆ六十代も後半となり
一回だけ言へばわかると言ふ夫よストーブ消すを忘れてをるに
目の前の知人に声を掛けようか離れて二十年の顔に気付かれねば
あの花は何の花かと声がして我も一緒に思ひ出しをり
囲碁ボールの玉の行方を見つめては一喜一憂の老いらの時間
廃業のガソリンスタンドの敷地には枯れ草残りて冬に入りゆく
不用品の引取場所に積まれ委ゐる数多の品が雨に濡れをり
寒風に晒されつつも拍子木を打ちて夜警すオリオン見ては
窓の外の青空と雲を眺めつつ炬燵に寝をり咳に苦しみ
頭にて描きし人は現れず若作りの人が目の前に立つ
ビル群の端に見出し古民家よ瓦屋根をば陰らせて建つ
刻みたるキャベツがあると「スーパー」の棚を眺めてまた振り返る
事務をせし頃に比べて健やけき暮しとなりけり農婦となりては
叔父さんの葬式に行き黙すれば父の葬りが蘇りたり
淡淡と進行をする長き日の葬儀に呼吸をしゐるを忘る
やんちや子が角を生やして立つがにも薹を立てゐる数多の玉葱
鯉のぼりを揚げずに過ぎし三十年息子はいまだ一人身のままに
塩糀が体に良しと聞きたれば即購ひぬ先づは実行と
老眼の眼鏡が五個目となりたれば買ふを躊躇ひ先送りする
父親の葬式にさへも帰れぬと夫は電話に声を絞りき
母在らば八十八となりゐむかわが在るかぎりは歳を数へむ
抽出しをコトコト開くる音がしてゴルフの用意かと狸寝入りす
民宿を営む間にも桃葡萄を作り出荷す滋賀より来し人
体験するケーブルテレビのアナウンスを急かされをりぬ五秒の声に
ガソリンの価格はいくら高かれど止むなく払ふ代はりあらねば
新任でありし恩師の年数ふ同窓会に会ひて幾年や
五メートルを越えたる行列の蟻どもを見下げてをりぬ畑にじつと
遅く寝て早くに目覚めぬ目に見えぬ体内時計に操られゐて
人逝けば香典帳を繰りて見つ人と金額を確かめながら
ひゆうひゆうと木枯らし吹きて雪花も舞ひ落ちくれば枯葉がなほ舞ふ
食べさせて買はされし商ひ肯ひてわが乗るバスにうどんを積み込む
人生が二回あらばと思へども賢くなりて生きてゐるかは
物忘れが確かになつてゆくことよ反射神経も鈍り急ブレーキが踏めず
母もまた西瓜の端を食みゐしか夕餉の膳に真赤き西瓜
娘が嫁ぎ四年になるも「DM」がまたも届きて廃品となす
老い来たり何時間でも椅子に座しじつと動かぬ義母を見てをり
雌鹿を罠に捕へし夫が言ふ「妊娠をした鹿だつたぞ」と
「近衛小」の絶えて久しき校庭は今もきれいに掃除されあり
見積りを三万八千円と言はれしにカメラの修理は頼まずにをり
売り家とて看板掛けゐる二階家の前を過ぎゆく三年経つかと
亡き父が幾度も持ち来し山芋よ今では猪に食はれてしまふか
伸び伸びし笹を刈り終へ満足をしてをりたりしが早も伸び来ぬ
コスモスが庭一面に咲き誇る父亡きあとの空き家を訪へば
特別に買ひたき物は無けれども「スーパー」に入りて人を見てゆく
六十路きてピアノ習ひて復習す練習曲をもう百回は弾きて
カレンダーに書きし予定をこなしつつ過去となれるを日々忘れつつ
電話での勧誘すぐに断はれば相手の舌打ち耳に届きたり
股関節が悪くなりては用なしと捨てて三年ヒール高き靴
見しこともなき文字に会ひパソコンで調べて納得す「嬲られて」
空き家増え墓守りは来ず墓地刈りは居残る夫の仕事となり来ぬ
材料を入れればパンが焼けをりぬ四時間の作業に関はりのなく
ボーナスの封を切らずに見てくれと我に渡せる君は善き人
目の前のパフォーマンスよ大道芸に汗する人よ喝采おくる
「わかるか」と問ひ来し人の顔見れば若き日共に働きゐし顔
何もせず畳に横たふ我がゐる猛暑日となれる午後の二時には
亡き父が記念に買ひし南部鉄の風鈴がいまだ縁に吊りあり
初めての年金を我は受け取りぬ僅かなれども通帳に見入る
久久の同窓会に百二歳なる教頭先生が花束受けられ
今年また山の裾野を這ひまはり籠いつぱいの薇取りたり
遠山にひと本眺むるさくらばなチェンソーの音を遥かに聞きつつ
あかぎれにワセリンを塗る祖父がゐき風荒ぶ夜の遠き思ひに
物好きと言はれてをるも良しとしてピアノも習ひ短歌も詠みをり
絵の良さはまるで知らぬに絵のあれば先づ絵の前に立ちつくし観る
亡き父の残せし足つぼ健康板を日毎踏むなりわが物として
一軒の家に咲きゐしマーガレットが今では「小房」をあちこち飾る
木の名前草の名さへも知らずきて覚えむとぞする図鑑を借りて
九十余歳がピアノを弾くを眺めつつわが行く先に思ひを巡らす
信号の赤にて止まる我を抜き車一台走り去りたり
お手玉をしばらく怠けて手に取れば続くは難く振出しに戻る
によろによろと蛇めが道を横切るを見えなくなるまでじつと待ちをり
夫が書きし地図を賴りに来たれどもうろうろしをり通りが違へば
松井 洋子 作品集